新年のごあいさつと大人になること

あけましておめでとうございます。

去年は確か、「なんか朝早く目が覚めて眠れなかった」という理由でこのサイトをまとめたのでした。もうずいぶん長い間「自分の情報をまとめたサイトがほしいし、日記も書いていきたいなあ」と思っていたはずなのですが、何度「やりたいことリスト」を書いても実行されなかったことを急に思い立ってやっつけてしまうので、本当に計画性というものと相性が悪いんだと思います。

だから新年の抱負とかもたぶん言わないほうがいいのだ。いや、言っとかないと忘れてしまうから言うだけ言っておいたほうがいいのかもしれない。でも言ったからってやらないと思います。

とりあえずトップのリンクにもおいているエブリスタですが、なんとここ登録しただけでなにひとつ作品がありません。まずここに何かしら作品をのせるのをファーストステップとしたいと思います。あとはまあ、気の向くままに書き続けていけたらいいなと思います。


12月30日におせちの下ごしらえをしながら、女子高生(という肩書きを本人が推している)のツイキャスをすこしだけ聞きました。

感想というわけでもないのですが、聞いてしばらく「いい大人、面白い大人でありたいとは思うが、いったいそれはなんなのだろう」とぼんやり考えていました。

わたしはまだ30歳ですので(2月に31歳になります。ハーフ還暦が終わってしまう)、大人のお姉さんに「まだ若いよ」「今のうちに好きなこと好きなだけやっときな」と切実にヨシヨシされながら酒など飲んでいるのですが、もう30歳でもあるのです。わたしよりも若いひとが30年分の厚みを持って存在するのです。少子化とはいいますが、「俺より若いやつに会いに行くぜ」といって全員に会うことは不可能でしょう。

だからこんな、「面白い大人に会って刺激を受けたい」と切実に願っている若い人にどんな顔で向き合ったらいいか、ちょっと考えてしまいました。

わたしは幸いにも大学で面白い大人にたくさん出会うことができました。酒場にもつまらない大人と面白い大人はとりどりに存在しました。「こいつつまんねえな」「鼻持ちならねえな」と思うこともまた学びのひとつではありましたが、それはわたしが面白い大人から学ぶことによって得た自由でした。

ものごとの分別をつけるには、自分にある程度の豊かさが必要です。それはどこから生まれるのかはっきりと断言はできませんが、わたしの分別は、対面・書物越し・その他の情報にかかわらずいろいろな人の考えに触れること、そしてその考えに自分がどんな感情を抱くかつぶさに観察し、なぜそう思ったのか、そこに矛盾や偏りはないか点検していくことの繰り返しで作られてきたように思います。

怒りに染まり流された日もありましたし、怒ってばかりの人に囲まれるのに疲れてそっとお別れした人もたくさんいます。自分を含めて考え方に偏りのない人間はいません。だからこそ、自分の考え方がどう偏っていて、誰を傷つけ不快にさせているのか、よく見ておく必要があるのだと思います。

しかし、こんなことを考えなくてもとりあえず生きていくことはできます。そうしている人が大多数です。考えることは疲れますし、そもそも「考える」「学ぶ」という発想がない人も多いです。なんと言ったらいいのかわかりませんが……楽しく生きて、仕事で稼いだお金で充実した毎日を送って、ちょっと出世なんかしている人でも、「自分を省みる」「人から学ぶ」ということを意識している人はそんなにいないように思うのです。

わたしは酒場で「つまらねえ、鼻持ちのならない男だ」と思ったら、なぜそう思ったのか帰り道を歩きながら考えます。その場では愛想笑いで済ませますが、どういうところが鼻持ちならないのか考え、そして「鼻持ちならない」「つまらない」と思った自分の考えが歪んでいないかも考えます。

でも、愛想笑いのあとに「ああ不愉快だった、早く忘れよう」で済ませる人のほうがきっと多いし、健康だし、楽しく生きていることでしょう。不愉快は不愉快。向き合って深掘りする必要はありません。だって深掘りしてよく考えたところで、次に同じような人間と話したときもまた愛想笑いで済ますのですから。

わたしは自分ひとりが考えたところで世界を変えることはできないと思うし、「考える」人が世界の多数を占めて良い方向に向かうこともおそらくないだろう、と思っています。世界にそんな余裕はありませんから。

それでもわたしが考えることをやめられないのは、身に染みついたクセでもありますが、自分を裏切りたくないと思うからです。考えることをやめて、その場の感情と反射で人生をやり過ごすことで、そういう人間に絶望したあの日のわたしを裏切って切り捨てて忘れてしまうのは、あんまりにも酷いと思うのです。

たとえば「女子高生」のわたしに、「大人になったよ。あなたの人生はつらいが、悪くないよ」と言ってあげられるような大人であれたらと、そう思います。