インターネット・デブリと引き換えの小銭

いやあまいった。お金がありません。

すべての金欠はわたしの場合おおむね自業自得なので、金がないのを嘆くのはほどほどにしてどうにか小銭でも稼げないかと奮闘しています。

この3月末は史上最悪の金欠(ボジョレー)だったので、さすがのわたしも小銭と引き換えに売文をする気になって、いわゆるクラウドソーシングに手を出しました。

なぜ今までほとんどやってこなかったかというと、気が滅入るからです。インターネットに広告収入のためだけのデタラメかつなんの益にもならないゴミカス短文をまき散らして雀の涙ほどの小銭をもらうということが、本当に、みじめで、そのうえ世界に害をもたらす悪行だからです。

インターネットはゴミに満ちあふれています。インターネットにGoogleの機嫌をうかがうキーワードをちりばめた見出しだらけのスカスカの記事をつくるとどうやらお金になるので、こぞってゴミをまき散らす人があとをたちません。

それでお金をつくって家族を養うのはどんなに素晴らしいことでしょう。少なくともわたしはその手助けをしてほんの数百円をもらうことで魂が汚れた感じがします。

しかし、それがお金になるということは、そのスカスカの記事に何かを求めて読みふける人がいるのです。そのことだけはわたしにとって何らかの発見でした。世の中を動かしているのは知性や理性ではない。もっと雑多で、どうしようもなくて、言葉にもならず、はっきり見えもしない、知性や理性の側からすれば取るに足らない、あまりにも大きく不明な力が世界を支配しているのです。それはおそらく、宇宙と少し似ています。

宇宙はわれわれの知覚からすれば虚無の空間に星がぽつぽつとあるだけです。そのさまを、「われわれに知覚できないなんらかの物質で満たされている」と考えることもできます。ダークマターというようなやつですね。

そういった「知覚できないもの」に動かされている、というとすわ陰謀論に染まったかと思われそうですが、たぶん陰謀論はどっちかというと「知覚できないもの」に理由をつけて知覚側に引き寄せようとする心の動きからなる不幸な事故なので、とりあえずわたしは大丈夫です。

「知覚できないもの」をどうにか見ようとして、人類は進歩を続けてきました。しかし、わたしは「知覚できないもの」を「知覚できない」ままに、その動きを受け入れることが必要なのではないかと考えています。

少なくともわたしの命があるうちに宇宙の全容を解明することは不可能でしょう。ならばここにある有限の命のひとつとして、「正体不明のなにか」が「ある」ということを知っておく。それはわたしたちの理屈では説明がつかず、コントロールもできないのです。天気や潮の流れのようなものです。高度な科学によって観測や予測が可能でも、このちっぽけな身体ひとつで飛び込んだならただ流されるままでいるしかない。

コントロールはできないのだ、ということを知っているだけでも、たとえば陰謀論に対抗することができます。この世界を支配し破滅させようとしている「知覚できる誰かの意思」などありません。そんなものがなくても、世界は勝手に、わたしの思うようにならずに動いていくのです。動かそうとしている人がいないのと同じように、わたしが動かそうとして動くものでもありません。世界の動きに抵抗などできないのです。

それでも、知性や理性を捨てられないし、「どうにか良くなれ」と祈ることもやめられないのもまた、正体不明の力のせいかもしれません。こんなふうに見出しのつけられない、Googleの歯牙にもかからないような、なんのお金も生まないけれど魂にとって必要な文章を瓶に詰めてインターネットに流すようなことも、「価値」とはなんなのかを考えるひとつのきっかけになりました。

インターネットに流れていくゴミとしては、デタラメの短文を並べたスカスカの記事のほうがお金を生むので価値があるかもしれません。でもわたしはこの文章をそれらのゴミよりもっとひっそりとインターネットに放つ必要がありました。それが魂にとって重要だからです。罪滅ぼし、というのが近いかもしれません。

知性や理性のためではない、ただただお金を生むためだけのスカスカゴミクソ見出し画像短文まとめ記事に手を貸してしまったからには、知性や理性のご機嫌もとってやらねば見捨てられてしまいます。わたしは落ちこぼれですが理知の徒なのです。それを忘れるわけにはいきません。

とにかくあの取引先とはもう手を切ります。これ以上金のために魂を傷つけるのは限界です。限界、まじで爆速で来たな。

渇しても盗泉の水を飲まず!(まんがでおぼえたことわざ)