砂上の楼閣に住む、顔を洗わないお姫様の話

2018年3月5日

ガチで物理的に汚くてごめんな。今のところインターネット越しに臭いは伝わらないから安心してほしい。

明日になったら全然違うこと言ってるかもしれないから、今日の記録として書いておきます。

自分のためのことに必要性を感じない

顔を洗わないで化粧するとイマイチだから、化粧する前は顔を洗う。

逆に言えば化粧しない日は顔を洗わない。小さいころから洗う習慣がなかった。

だって「朝顔を洗ってきた人」と「洗ってきてない人」の顔、両方すっぴんだったら見分けつかないでしょ?少なくともわたしはつかない。顔を洗わずに外に出て「洗ってないでしょ」って指摘されたこともない。そんなん指摘しないだけでみんな気づいてるよ……ってことだったら指摘してほしかった。

昔から「誰かのため」「何かのため」にそのときだけ“変身”するのは好きで、一回こっきりなら綺麗に装うのも好きだった。

でもそれを毎日やるのは無理。「いやそんな毎日MAXメガ盛りにする必要ないじゃん、顔洗うだけじゃん」って思うでしょ?

でもその「顔洗うだけ」って何のため?誰が見てる?

自分のためだし、誰も見てない(指摘されないのはそういうことだと理解している)。そういうことに割く気力や時間は無駄だと思ってる。

無駄っていっても顔洗うだけでしょ?5分もかからないよ(10分くらいはかかるの?普段やらないからわからない)、って言われるかもしれない。でも「習慣がない」ってすごくて、その5分のハードルがめちゃめちゃ高くなる。「顔洗わなきゃ」で30分経ってるとか余裕。

だって、毎朝顔洗っても誰も褒めてくれないじゃん。

でも化粧して髪も巻いたら褒めてもらえる。それは嬉しいし、たまには頑張る。でもやっぱ毎日は無理。

うんこが自動で流れてくれるのはトイレだけ

汚い話続けてごめんな。

自分ってうんこ製造機だと思ったことない?

起きてるだけでおなかがすくし、なんか食べたら洗い物が発生するし、風呂に入らないとかゆくなったり臭くなったりするし、生きてると面倒しか発生しない。

でもトイレに入ったらうんこは自動で流れてくれる。これってすごいことだと思う。人類が生み出した文明ってここにあるんだって思うじゃん。

でもトイレも掃除しないと汚れてくるんだな〜〜!!!

何が言いたいかっていうと「日常を維持するための行動が重い」ってことなんだけど、たとえば「ごはん作る」と「洗い物する」とか、「風呂に入る」とか「掃除をする」とか。

これマジでいろんな人に聞いて回りたいんだけど、どこまで真面目にやればいいの?

私が「OK、いま私とりあえず息してる、合格」って思うレベルと「世間一般に最低限これだけはやるべきと思われる」レベルがめちゃめちゃ離れてるっぽいんですよ。というか、後者がどのへんにあるのかわからない27歳。

27歳ね、「世間一般にはこのくらいはやってるんでしょう?」って思う生活水準はなんとなく見えてるんですよ。でもそれめっちゃ遠いの。霞んで見えるくらい遠くてよくわかんない。で、頑張ってそこを目指そうとするとぶっ倒れるし、「理想が高すぎるんじゃない?」とかも言われる。マジで?だってみんな毎朝顔洗って毎日風呂入ってるんでしょ?そこにも27年たどり着けてないんですけど……

基本的に「日常」「あたりまえ」「普通」がよくわからない(イキリオタクではない)。よくわからないのに強制されるから嫌いになる。

それに反して「理想」は頻繁に提示されるじゃないですか。というか「理想」のほうが目に入りやすい。街を歩いてても「あの人かわいい、あんな風になりたいな」と思うことはあっても「あの人めっちゃ普通、とりあえずあのへんを目指そう」と思うことはない。私は意識して「このへんかな……」っていう人を探す日もあるけど、意識しなかったらやっぱりパッと目を引くのは「理想」のほうだよね。

「普通」が「よくわからない」のは、人によって言うことが違うからでもある。十人いたら十通りの「普通」があると思っていい、ってよく聞く話じゃないですか。じゃあ私の目指すべき「普通」ってどれなの?って聞くと、「いや普通ってそういうことじゃなくて普通だよ……」としか答えられないんじゃないですか?そういうよくわからないところを目指すくらいだったら、一足飛びに「理想」に行きたい。そしてぶっ倒れる。

ぶっ倒れるまで頑張る必要ないよ、自分にできる範囲でいいんだよ、って言ってくれる人もいるかもしれない。でも「自分にできる範囲」の生活ってここまで書いてきたとおり、顔も洗わないし風呂も入らないし掃除もしないしなんならメシもろくに食わないゴミみたいな生活なわけですよ。頑張らないとそうなるの。

結局「自分のため」に何かをする習慣もないし、褒めてもらえないことは頑張れないし、そもそも「自分が生きる」ことに価値を感じてない。やりたいことがたくさんあるのはたぶんその裏返しで、「何かを成さねば生きている価値がない」と思っているせいなんだよね。だから「何かを成す」のが優先で、「人並みに身の回りを整える」とかは別にやる必要性を感じない。褒めてもらえるわけでもないし。(普段から身の回りを整えていないと死ぬほど罵られるとかだったらもうちょっとマシだったのかな?死んでたかもしれないけど)

ダメな成功体験と異常な日常

中学校とかもしかしたらもっと前から「自分の居場所がどこにもない」と感じていて、不登校にもなったし朝家を出てから学校の前でUターンしてとにかく逆走を続けて知らない場所まで歩いていったこともあった。

その「居場所がない」感じはたぶん「自分の普通が他の人に通じない」ことからきていて、中学では本当に誰にも言葉が通じなくて途方に暮れていたし人間不信になったんだと思う。高校で最初の一年留年したのはそれが原因で、二度目の一年生でようやく「ここの人は話が通じるっぽい」とわかってなんとか二年、三年と進級した。

それでもやっぱり「日常」が嫌いで、宿題も出さないし予習もしないしなんなら出席もしないのに部活とか文化祭は張り切るから、担任の先生に「まず毎日やるべきことをきちんとやってから非日常を楽しみなさい」みたいなことを言われた。今考えれば至極まっとうなことを言われたもんだと思うけど、そのときは「息をするな」と言われたみたいですごくショックだった。別の先生に「甘えるのもいい加減にしろよ」と言われたこともあって、たぶん同じことを言いたかったんだと思う。

そういう「基礎や足下をきちんと固めてからその上に家を建てる」みたいなことが本当に理解できなくて(「掃除をしてから花を飾る」とか「宿題や予習をしてからテストでいい点を取る」とか)、今でもわからないしできないでいる。毎日ごちそう食べたいわけじゃないけど、ごちそうじゃない料理がなんなのかわからないから作れない、っていうのはわりと最近まで文字通りそうだったし、例え話としてならいまだにそう。

大学を卒業した日、ずっと面倒見てくれた教授に「あなたは好きなことしかしない人だ」って言われた。これはさすがに人を見る目があるというか、5年以上見てたらわかっちゃうんだろう。好きなことだけしてても今まで生きてこられてしまったし、大学だって卒業できてしまった(7年かかったけど)。宿題を出さないどころか授業を受けなくてもテストで百点取れてしまった。そういう「ダメな成功体験」のせいで「あたりまえ」のことや「日常」をちゃんとやる習慣がつかなくて、受験の前だけ勉強すればいいし、晴れの日だけ綺麗にすればいいやって考えになってしまった。それでうまくやってきてしまった。27年。

でも、実はうまくやれていなかったのかもしれない。

それは履歴書を見たらわかる。高校に4年通って卒業できず、高卒認定試験とって入った大学も卒業するのに7年かかった。だから今27歳で新卒(じゃなくなったけど、卒業後3年以内の既卒だから新卒枠)。そういういびつな履歴書が、そのまま私の隠しきれない「異常な日常」であって、それが受け入れられなかったり、受け入れてくれた場所からはじき出されてしまったりすることが重なるたび「やっぱり私の居場所はどこにもないんだ」という思いが強くなった。

でも、私が就職できないのは履歴書のせいじゃない。履歴書は過去の話であって変えられない。履歴書のせいで就職できないなら、私は未来永劫就職できない。(そういう未来、見えてないわけじゃないけど)

私が就職できる気もしないし、長く働き続けられる気もしないのは、今と未来の私が「異常な日常」から抜け出す方法がわからないから。

私の「異常な日常」がボロを出すと、私はその場所から逃げ出すしかなくなってしまう。それは顔を洗わないとか風呂に入らないとかよりもっと根本的なことで、具体的にうまく言うことはできないんだけど、私は「人としてどうかと思う」って言われて泣きながら逃げ出したことが何度もある。友達に突然そう言われて縁を切られたこともあるし、今でも仲良くしている子に遠回しにそんなことを言われたこともある。

要するに「自分の普通が他の人に通じない」となったときに、上手に解決することができない。そのうえ、そういう事態にものすごく頻繁に陥る。

私を裏切らないのはおふとんとカツ丼だけ

それは“寝ること”と“食べること”だけが「自分の(異常な)日常」と「普通の日常」が重なる部分だっていうこと。

しかも“寝ること”は純粋に眠っている間だけで、夜に寝て朝に起きるとかには裏切られているし、“食べること”も純粋に食べるだけで料理とか洗い物は含まれない。そのふたつの瞬間だけ、私は何も考えないで幸せでいられる。もっといえば、「普通の人」でいられる(もう一回言うけど、イキリオタクじゃない)。

私がわからない「普通」のことって「普通の人」にとっては「そうしないと成功できないステップ」であって、みんな当たり前にそのステップを踏んで成長してきてそれが「普通」になるんだと思う。特に、私の周りにいた「大卒」とか「偏差値65越え」とかの人になるためには、そういう「普通」を持ってないといけなかったんじゃないかな。わかんないけど。

でも私は「普通」に高校を卒業することさえできなかったのに、大学に合格してそういう「普通の人」の中に飛び込んでしまった。分不相応、って言えばいいのかな。足下が固まっていないのに、ジャンプしたら上のステップに手が届いてしまった。そういう「異常」で「ダメな成功体験」の繰り返しでだましだまし生きてきたんだけど、でも今まで全部のそういうアクロバットのどこかで「普通」に「失敗」していたら27歳の私がちゃんと生きていたか自信がない。

中学では誰にも話が通じなかったのに高校に行ったら話が通じたとか、県外の大学に合格して実家を出たらとても息がしやすくなったとか、私が何回もアクロバットに挑戦して「ダメな成功体験」を重ねてきたのは、私が少しでも楽に生きるための戦略だった。

それを甘えといえばそうなんだろうし、私は27年甘やかされてようやく生きてきたんだと思う。例えば顔を洗ってないって気づいても指摘しないみたいな「お目こぼし」にすがって生きてきた。

でも、ここにきて社会に「甘えるのもいい加減にしろよ」を突きつけられてしまった。

それは就職できないってことだし、居場所がないってことだし、意識のあるときは何をしていても劣等感から逃れられないってことだ。

例えば私の前を通った人がぼそっと何か独り言をつぶやいたら「私が臭いんだ」「邪魔なんだ」って思う。すれ違った人が笑ったら「私が気持ち悪いんだ」って思う。お風呂にちゃんと入って化粧をした日でさえそう。慣れないことをしてるからどこかおかしいんだって思う。

私には憧れしか見えなくて、お姫様になりたくて必死で砂上の楼閣を築き上げてきたけれど、お城が高くなるほどに周りのお城と違うことが不安でたまらなくなるし、何度もお城は崩れかけている。もしかしたらもう崩れているのかもしれないし、それは私のお城が砂の上に建っているせいだ。

でも今さら砂の上に這いつくばって生きたくはない。そう思うなら今からお城の足場を固めなきゃいけないんだけど、こんなにごちゃごちゃ築いた崩れかけのお城をどうしたらいいのか、さっぱりわからないんだな!