魔女になろうかと思う

「魔女になりたいです」と言いだしてどれくらいたったかもう覚えていませんが、なんか「魔女になりて〜なあ」とここしばらく思っています。

はとさんがやくにたたないことをダラダラとしゃべるラジオです。聞いてると無性に眠くなると思います。第一回は「魔女になりたい」。魔女になりたい話からあれこれと話題を…
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ポッドキャストの「魔女になりたい」回。

「魔女ってなんなのだろう」と考えたとき、まだふんわりしたイメージしか伝えられないのですが、自分の今できることとやりたいこと、目指しているものなどを総合したときになんとなく「魔女のはとさん」が見えてきたかな、と思うので、そろそろ「魔女です」と名乗ってみようかな。

魔女とは、周縁にあるもの

「中心」に対する「周縁」はわたしの中で重要なテーマです。「マジョリティ」に対する「マイノリティ」と言い換えることもできるかもしれません。世の中で「これがふつう」とされているものから遠く離れていて、雑多でひとつひとつ異なる形をしていて互いに理解もできないくらいだから力を合わせて構造をひっくり返すこともできない。でも、全体を見たら「中心」になるものはほんの一部で、ほとんどの範囲を「周縁」が占めているのです。「都会」と「田舎」をたとえにしたらわかりやすいかもしれません。お昼のワイドショーでは東京の人気のお店を紹介していても、それを見ているほとんどの人は東京にこのあとすぐ行くことはできない地方に住んでいます。でも、ワイドショーはあたりまえのように東京のお店だけを紹介します。

歴史の中で、魔女は「異端」です。キリスト教の枠組みから外れたもの。歴史を記述するのは「中心」であるキリスト教の権威の側ですから、魔女は敵として恐ろしげに描かれます。いま言い伝えられる「魔女」のイメージのほとんどはそうしておどろおどろしく歪められたものかもしれません。もしもそこから読み取れる本質があるとしたら、魔女とは「中心から外れたもの」だった、という構造の部分ではないかと思います。

「魔女」として象徴されるキャラクターに「女性」の要素が含まれているのは興味深い点です。長らく女性は歴史の中心からは除かれてきました。「女性」は数としては男性とそう変わらないのに、「マイノリティ」として扱われています(今もです)。それは社会の仕組みが「マジョリティ」である男性に合わせて作られているからです。男性も女性も変わらない、社会的に平等に活躍すべきだ、といったとき、今の社会では「産む性」としての女性をあきらめざるを得ません。育児を人に任せることがたとえできても、出産にともなう身体的なダメージを他人に負わせることは不可能です。その回復のために必要な休暇をとったときの空白がキャリアに不利に働く社会構造になっている以上、女性が「男性のように働く」ほかに活躍する道はありません。(これは女性だけの問題ではなく、さまざまな理由でキャリアに空白を作らざるを得なくなった男性にとっても同じ問題です。長い休職がその先のキャリアを閉ざす構造は誰にとっても良いものではありません)

そしてまた、魔女は「女性」の中でもマイノリティ側に立ちます。魔女は「悪魔と契りを交わした女」とされ、長く女性にとって一般的だった「男性と結婚し子供を産む」という役割の枠組みから外れたものです。(こうしたマイノリティの中にマジョリティとマイノリティを内包する構造も珍しいものではありません。差別と偏見の構造は「敵」と「味方」のように単純に二分されるものではないことを覚えていてほしいと思います)

わたしにとって「魔女であること」は「周縁に立ち、周縁の視点から世界を眺めること」です。

とはいえわたしが常にマイノリティの側に分類されるかというとそうではありません。男性か女性かの軸でいけば女性になりますが、「自分の性に違和感を持っているか」といわれれば「特に持っていない」多くの人たちの側に分類されます。歴史を記述してきた知識層と、文字さえ解さなかった多くの人々の枠組みを使うならば、落ちこぼれながらも知識層の側に分類されるでしょう。(この枠組みは古くて使い物にならないと思われるかもしれませんが、こんな文字だらけの記事を「読める人」と「読めない人」は現代でもはっきりと分かれます)

弱者ぶるのではなく、被害者ぶるのではなく、「自分の立場に自覚を持ち、自分に見えないもののことをいつも考える」ことが「周縁の視点を持つ」ことになるかもしれません。

魔女とは、くらしを手で作るもの

魔女のイメージをもっと身近に考えたとき、「ハーブ」や「占い」を思いつく人も多いかもしれません。

それらは医療や知識・教養の代替として庶民の生活に必要とされていた技能でした。お金がなくても病気や怪我はしますし、学がなくても「いつ、なにをするか」は決めなくてはいけません。王侯貴族が侍医を呼び、宰相に尋ねるところを、庶民は魔女に頼るのです。それはそのまま科学と非科学の対立に投影されるかもしれませんが、わたしが目指すのは科学の否定ではありません。

周縁が中心を否定しえないように、ハーブや占いは現代医療やデータに基づく意思決定の代替にはなりません。しかし、中心があるとき必ず周縁がうまれるように、科学の手が届かない部分に非科学が何かをもたらす、ということはあるはずです。

中心と周縁、科学と非科学、の対立と同じように、大量生産と手作り、もまた互いを否定するものではありません。大量生産の商品は生活のほぼすべてをまかなえるだけ出回っていますし、それを買って使うほうが明らかに便利で効率的な場面は数多くあります。でも、大量生産の商品が「わたし」に完全にぴったりくることはありません。わたしだけのために作られていないのだから当然です。

大量生産の商品は「世の中のなるべく多くの人」が使いやすいように作られます。「左利き用のはさみ」や「背が低い、胸が大きいなど特定の体型の人に合わせた衣服」が作られるようになったのは、今まで生産されてきた商品が取りこぼしてきた人々のニーズをとらえたからです。

しかし、そうした「埋もれたニーズ」がどんなに掘り起こされても、「わたし」だけのために商品が生産され、流通することはありません。商売ですから利益を出す必要があります。ニッチな悩みを解決する製品はある一定のラインで商品化が難しくなります。つまり、「商品として流通する」という構造そのものに限界があるのです。

その限界の先に触れるためには「自分で作る」のがいちばん手っ取り早い。「使いづらい、自分に合わないと思いながら我慢する」という道もなくはないですし、そうしている人がほとんどでしょうが、わたしは「作れるなら作ったほうがいい」と思います。

世の中にはもっとたくさんの選択肢があるはずです。わたしは長いこと炊飯器をもたずにフライパンでごはんを炊いていましたが、「炊飯器がない」から「毎食パックのごはんをチンする」の間に「炊けるものでごはんを炊く」という選択肢があった。それは選択肢であって、炊くのが面倒ならパックのごはんでいいのです。さらにいえば今は炊飯器を買いましたからわざわざコンロでごはんを炊くことはもうありません。

わたしはいわゆる「ていねいな暮らし」がしたいのではありません。なんでも手作りを善とし大量生産を忌避したいのではありません。大量生産や便利な製品でぴったりくるものはそれを使います。それらが届かない部分を諦めたくないのです。また、作る楽しみを奪われたくないのです。

作る楽しみとはいっても、労力に(楽しさ含めた)結果が見合わないものはわざわざやりません。「ていねいな暮らし」として提示されるモデルケースをなぞることもまた、大量生産の商品に合わせた生活をすることと同じです。わたしはわたしが楽しいと思うこと、心地よいと思うことを追求して暮らしたい。

「手作り」が目的になっては本末転倒です。ハンドメイドは趣味として一般的になりましたが、完成品が「ハンドメイド相応」では作る意味がない、と考えます。「大量生産のもっと安い商品と店頭で並べたとき、手作りのほうを魅力的に感じて買う理由がある」ものを作りたい、と思っています。誰にとっても魅力的である必要はありません。自分のために作るのですから、自分にとって世界一魅力的であればそれでいい。「流通している商品ではこういうものはない」というのも魅力のひとつですが、商品として完成度に劣っていてほしくはないですね。

結局のところ、魔女とは

なんかもう「名乗ったもん勝ち」では? と思ったので、今度名刺つくるとき肩書きは「魔女」にしようかと思います。

中心から規定されない、みずから名乗るものとしての「魔女」はきっと、「こうあるべきだ」と枠に自身を合わせるのではなく、暮らし歩んでつくりだすかたちをそのまま「魔女」と呼ぶのでしょうから。

魔女のはとさんです。できることは、占星術と自分のめしをつくること。自分の読みたい文章を書くこと。そのほか、自分のために生きること。もしもあなたの役に立ちそうなことがあれば、気軽に声をかけてください。