少女たちは文学とともに大人になる

2017年12月13日

dropboxからファイルを引き上げるときに昔のレポートとかを整理していたらちょっと恨みに満ちた文章が出てきたのでサルベージします。

原題は「吉屋信子からジュニア小説、現代少女小説への流れと一般文芸への進出—少女たちは文学とともに大人になる」なんかサブカルチャーの講義に提出したレポートだった気がします。

現代少女小説はサブカルチャーか

まず「現代少女小説」というジャンルの定義をはっきりさせておかねばならない。少女向けライトノベル、あるいはティーンズ文庫、とも呼ばれる現代少女小説は、直接の親としてジュニア小説の流れを汲み、集英社のコバルト文庫や講談社のX文庫ホワイトハート、角川ビーンズ文庫などの文庫レーベルから出版される、若い女性を対象としたエンターテイメント性の強い小説群の総称である、とひとまずはくくることができるだろう。

これらの文庫レーベルにははっきりとした世代差があり、2000年を区切りとして以前と以後に分けることができる。

2000年以前に創刊されたのは、コバルト、ホワイトハートであり、コバルトは数年前までは同じレーベルの中でBLも出版していた。ホワイトハートは今でも少女向けとBLを同じレーベルで出版しており、さらに背表紙をピンク色にした「乙女ノベル」と呼ばれるジャンルの性描写を含む男女のロマンスものもホワイトハートのくくりで出版している。

2000年以後に創刊されたのはB’sLOG文庫、ルルル文庫、一迅社アイリス文庫であり、これらの特徴は限りなく似たような話を生産し続けることである。ロマンス至上主義といえばいいだろうか。もちろんBLなどはもってのほかであり、2000年以前の老舗組とは随分とレーベルのカラーが違うように見受けられる。

さて、いずれにせよ現代少女小説がかつて大正・昭和初期の女学生を熱狂させた少女小説やジュニア小説のようにほとんどの少女たちに読まれている普遍的な娯楽であるとは考えにくい。その背景には娯楽の多様化があるだろう。「乙女向け」とされる文化に限ってさえ、たいへんな広がりをみせている。その筆頭はスマートフォン向け恋愛ゲームアプリであり、これこそがかつての少女小説にあたるほどの人数を熱狂させているのかもしれない。また、少し踏み込めばティーンズラブコミックがあり、携帯ゲーム機向け乙女ゲームがあり、シチュエーションCDがあり、乙女向け文化の世界はいまやよりどりみどりである。その中で、あえて小説という媒体を選ぶ理由は、相当その人の中に強固なものがなければ手に取る動機にすらならないだろう。

そもそも「乙女向け」文化自体が少年漫画やゲーム、アニメ等のサブカルチャーであるのに加え、少女小説はいまや「乙女向け」文化を好む人の中でも限られた人、もしくは読書人の中でも限られた「乙女向け」趣味を持つ人だけが好む文化となっている。いわばサブカルチャーの中のサブカルチャーなのである。

吉屋信子からジュニア小説、現代少女小説への流れとその相違

吉屋信子にはじまる大正、昭和初期の女学生を熱狂させた少女小説、あるいは少女雑誌文化は、少女が少女のために綴る文化であり、それは現代少女小説も同じであって、新人作家の発掘は投稿や新人賞を主に行われ、作家のデビュー年代は二十代からが多い。

対してふたつの「少女小説」の間、一九六六年—一九八二年の「小説ジュニア」を中心とするジュニア小説の書き手は戦争を経験した大人が主であり、彼らは読み手の心に寄り添おうとはしていたが、同化してしまうことはできず、期待された「ジュニア小説を読んで育った世代の書き手」が現れるころ「小説ジュニア」は「Cobalt」に姿を変え、ジュニア小説の時代も終わるのである。

内容の面から見ると、吉屋信子の書いた少女小説は女学生、少女自身を題材とし、その日常から離れない。舞台は女学校であったり、少女の生活範囲内であることが多い。女学校という限られた時間、短いモラトリアムの中でのかりそめの愛、夢、美を描き、終わりが予感されるゆえの美しさを強調するものが特に初期の作品に多い。

ジュニア小説はやはりジュニア世代の少女自身を主人公とするが、対象年齢は二十歳くらいまでと少し上がっている、と出版側は想定していたようである。そしてやはり、少女の日常からは離れない。SFものもあるが、日常にひそむSF的世界観を描いたものが多いように思われる。時代ものがない、というのは大きな特徴だろう。時代ものでは少女の日常から離れすぎてしまうのだ。ただし、時代の移り変わりとともに少女の日常そのものが広がったために吉屋少女小説よりは内容に広がりや幅を持つ。全体の傾向としては、成長譚、大人への一歩を踏み出す結末が多く、教条的だと批判されたこともある。

現代少女小説は打って変わって圧倒的にファンタジーが大半を占め、現代ものはほとんどない。これは「Cobalt」の創刊された一九八二年という時代がちょうど日本におけるファンタジーの広がりを本格的にしていった時代と重なることと無縁ではないと思われる。ジュニア文庫がコバルト文庫となってしばらくは学園ものや現代ものが多かったのも確かであるし、当時の人気シリーズで最近まで続いたものもある。しかし次第に新しく発刊されるシリーズはファンタジーや時代もの中心になっていき、今では現代ものもBLも姿を消した。現代少女小説というジャンルをファンタジー中心にする大きな転換点となったのは一九九一年にはじまる小野不由美『十二国記』であろう。このファンタジー大作はホワイトハートから出版されたが、そのホワイトハートがいまだBLも乙女ノベルも同じレーベルから出版するという頑なまでの懐の深さを堅持しようとしているところは皮肉というか興味深いところではある。

『十二国記』以降、またひとつ転換点がある。それは同じく中華風ファンタジーであるが、重厚な世界観と容赦のないシナリオを特徴とする『十二国記』とは対象的な、雪乃紗衣『彩雲国物語』である。これは角川ビーンズ文庫から二〇〇三年に第一巻が出版され、本編十八巻を数える人気シリーズとなった。軽快な会話、深みのない世界設定、数え切れないほどの美男子たち……。作者本人があまり「中華」を知らず、書きながら勉強しているのではないかと邪推させる軽率な中華風ファンタジーがこれほどまでの人気作になったことは『十二国記』とは比べものにならない数の雨後の筍を生み出した。いま、現代少女小説ジャンルにおいて中華風ファンタジーはいちジャンルを確立しているが、そのどれもが読むに堪えない「なんちゃって中華」である。

「なんちゃって」なのは中華に限った話ではない。ジュニア小説までの主人公はあくまで読み手が自身を重ねやすいリアルな「少女自身」であり、ごく普通の少女であることが多かったが、現代少女小説の主人公はほとんどが特殊能力を持っていると言って差し支えない。もしくは、既婚者であったり、高貴な身分であったり、ファンタジーや時代ものにはよくある設定ではあるものの、そのまま自己投影するには無理のある主人公ばかりだ。「ファンタジー」を取り入れるにあたって、少女小説というジャンルが「日常」を捨てたことがよくわかる変化ではないだろうか。

そして、他ジャンルからの影響も見られる、と筆者は考える。二〇〇〇年以後に創刊された文庫の特徴はロマンス至上主義である、とさきに書いたが、それはロマンスの老舗中の老舗、ハーレクインシリーズの影響もあるのではないかと考えている。実際、ハーレクインの読者と少女小説の読者層は年齢的にも接近していると思われるし、両者のあいだを埋めるような形で「乙女ノベル」なるジャンルも隆盛を極めているが、ここでは煩雑になるので触れない。

少女たちは文学とともに大人になる

かつて少女小説の読み手は、少女小説を「卒業」する日があっただろう。特に大正・昭和初期の少女たちは、短いモラトリアムが終わってしまえば少女小説の夢には浸っていられなくなる。

しかし、現代少女小説の読み手たちは、少女小説を「卒業」することを強いられることはない。好きであれば、好きな限り、いつまでも読み続けていられるのだ。ただし、変容する少女小説レーベルに置いていかれるのはそう珍しい話でもなく、そう先の話でもないだろうが。

ただし、出版社は読み手のためか、書き手のためか、新たなステージを最近用意しはじめた。集英社でいえばオレンジ文庫がそれである。この文庫レーベルはコバルト文庫出身の作家が非常に多く作品を発表しており、新人賞もコバルト文庫と一律に選考される。しかし書店ではライトノベルの棚ではなく一般文芸のいちコーナーに置かれ、表紙も落ち着いたイラストを採用していることが多い。ライトノベルレーベルが新たに一般文芸とのあわいに立つような文庫レーベルを次々に創刊しているのは集英社に限った話ではなく、書店を歩けば一般文芸の棚にずいぶんイラスト表紙の文庫が増えたと実感するはずだ。

少女小説レーベルで人気を博した作家は既存の一般文芸のだけでなく、そういった「半一般文芸レーベル」で少女小説の枠に収まらない作品を発表している。それは言い換えれば「少女小説の枠」が固定化し、能ある作家がどんどん自由に書きにくくなっていることの表れでもある。

少女小説、または、ライトノベルは、サブカルチャーである。大衆文学は、純文学のようなハイカルチャーではないものの、文学のいちジャンルである。つまり、少女小説出身の作家が大衆文学=一般文芸で作品を発表することは、単純にみれば「文学とサブカルチャーの交錯」といえるかもしれない。しかし、実態をみれば、読み手も減り、制限もきつくなった少女小説という狭い水槽から酸素を求めて逃げ出した作家が、より多くの寛容な読み手に向けてのびのびと書ける環境を手に入れた、ということだ。サブカルチャーといえど、少女小説も小説である以上文学性を持っていた。それが安易なエンタメ至上主義、キャラ萌え至上主義に文学性を奪われてしまったのではないか。能ある作家が次々と少女小説レーベルから逃げ出していく。それは「サブカルチャーの持っていた文学性の喪失」の結果であるように、筆者には見えてならない。

追記

これ書いたの何年だったかさっぱり覚えてないんですが、たぶん2015年ごろかなーと思います。数年でライト文芸?なんて呼んだらいいんだろ、イラスト表紙の一般文芸レーベルもずいぶん定着した感がありますね。

ものすごく現代少女小説に唾を吐きかける内容ですが、今はもうちょっとあたたかい目で見ていますよ……。